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昔の名古屋の「ことば」は?

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このページを印刷する最終更新日:2010年4月22日

ページID:12716

名古屋開府400年祭マスコットキャラクター

昔の文献をひもとくと・・・

『松永貞徳(まつながていとく)が慶長5年(1600年)に著した「徒然草慰草(つれづれぐさなぐさめぐさ)」のなかに「(1)尾張より信長公の上洛以降、高きも賎しきも都のうちの物言ひ皆かはりたること多し。」と述べ、さらにくだって、享保2年(1717)、新井白石(あらいはくせき)がその著「東雅(とうが)」の総説の中で、貞徳のことばとして「我年十二、三の時に、貞徳のいひし事あるなり。(2)其の幼き比ほひまでは、京の人の物言ひ、今の如くにあらず。今の人のいふ所は、多くは尾張の方言相雑れるなり。これは、信長、秀吉の二代うちつづきて、天下の事しりたまひしによれるなり。」と記している。』

【引用資料】[書名]江戸時代の名古屋方言(文化財叢書 第41号) [著者名]芥子川 律治 [著作権発行者]名古屋市教育委員会 [発行年月日]昭和41年3月31日

 (1)信長公が京都へ来てから、都に住む身分の高い人も低い人も、言葉遣いに名古屋のことばが多く混じるようになった。

(2)貞徳の幼い頃までとその後では、京の人の言葉遣いが変わってしまった。尾張の方言が京言葉に多く混じったからである。これは信長や秀吉が天下を治めたので、家臣をはじめ多くの人が京に入り、言葉も混じることになった。

400年の旅人「はち丸」

 かつては大名がその領国に赴くとき、言葉遣いや地場産業、生活文化、食文化なども共に移動することがあったんだって。

 この本を読むといろんな地域で名古屋の「ことば」が話されていたことがわかるね。

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