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桶狭間周辺のみどころ一覧

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このページを印刷する最終更新日:2013年10月18日

桶狭間周辺のみどころ一覧

戦評の松

瀬名氏俊がこの松の下で戦評をしたとされる。また旧暦の5月19日今川義元の亡霊が真夜中白装束で白馬に乗り、大池の周囲を駈けるとの伝説がある。 江戸時代これを見た刈谷の魚屋が、義元の亡霊から、他言無用と堅く口留めされていたが、ついに隠しきれず、他人に漏らした途端熱病にかかり遂に死んでしまったという話が語り継がれている。

長福寺

長福寺の画像

天文7年(1538年)草創、西山派浄土宗寺院。義元の同朋林阿弥が主君を弔うため阿弥陀如来を奉納。堂内に今川義元、松井宗信の木像が安置されている。

瀬名氏俊陣地跡(せなうじとしじんちあと)

合戦の2日前、今川軍の先発として瀬名氏俊率いる約200人はここに着陣し、18日に村人を使っておけはざま山に翌5月19日の総大将義元の昼の休息陣地を構築した。

おけはざま山

おけはざま山の画像

桶狭間古戦場公園の東の道を行くと左側丘陵で現在は住宅化している。150メートルほど歩くと左へ登る道がある。登りきった頂きからは古戦場地帯が一望できる。この付近が「信長公記」 にある「今川義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」と、指摘する処である。

桶狭間古戦場公園

桶狭間古戦場公園の画像

今川義元討死の場所(永禄3年5月19日)。昔からこの地を田楽坪と称している。「信長公記」によると、義元討死の地は深田のそばの低地である。合戦より48年後の慶長検地は、この西側に約2町歩の本田の存在を示している。天保絵図では本田の中に田楽坪を明示している。慶長7年編の「中古治乱記」は合戦の地を田楽坪としている。

  • 義元馬つなぎのねず

合戦の時、義元が馬をつないだ「ねず」といわれ、この木に触れると熱病にかかるとの伝承がある。

  • 義元の墓

駿公墓碣があるが、その建立年は不明である。
他に義元公、水汲みの泉あり

七ツ塚

七ツ塚の画像

信長は義元を討ちとった後この付近に兵を集め勝鬨をあげ清洲に帰った。後、村人はこの東西に七つの穴を掘り戦没者を埋葬、塚として弔った。

桶狭間神明社

神明社

桶狭間村は1340年代、南朝の落武者によって開拓されたという。神明社の創建については定かでないが慶長13年の検地で「免除地」となっているので、1600年以前に祀られていた事は確実である。桶狭間合戦の時、 瀬名氏俊が御酒を供えたと云われる桶が宝物として保存されている。

釜ケ谷(かまがたに)

中島砦より進撃してきた織田軍、この谷に潜み突撃の機会をうかがっていた。

高根山

桶狭間合戦の時、今川方の先陣松井宗信軍約200人がこの地に着陣。織田方の佐々、千秋軍と激戦が行われた。

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