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大野鱗三氏による「実利多産 鶏の飼い方」について

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このページを印刷する最終更新日:2020年9月25日

ページID:80988

 「実利多産 鶏の飼い方」は、大正13年に大野鱗三氏が刊行したもので、大正時代の養鶏事情と名古屋コーチンについて知ることができる資料です。
 この原文の複写は「国立国会図書館デジタルコレクション(外部リンク)別ウィンドウ」ホームページで、ご覧いただくことができます。

著者の大野鱗三氏について

 大野氏のことは、「実利多産 鶏の飼い方」の「はしがき」で、次のように紹介されています。「著者大野氏は前愛知県畜産主任技師にして殊に家禽には最も造詣深く、本県の今日あるは一に同氏の力にあづかって大なりし」。
 また、別の資料(「日本養鶏史」 養鶏中央会編 昭和19年発行)では、大野氏は、愛知県立農事試験場技手の高橋廣治氏等とともに愛知家禽協会を大正2年に設立した、とあります。
 大野鱗三氏は、大正時代の愛知県の養鶏業の隆盛に大いに貢献された人物だと言えます。

「実利多産 鶏の飼い方」の内容の一部紹介

 「実利多産 鶏の飼い方」は、11章172ページで構成されています。
 同書によると、愛知県の養鶏業は、盛大を極めていたようです。県内の鶏飼育戸数は12万戸、鶏の羽数は200万羽、1戸当たりの飼育羽数は平均17羽。別の資料(「農業技術体系」農山漁村文化協会 発行)によると、大正14年当時の全国の鶏飼育戸数は350万戸、鶏の羽数は3700万羽、1戸当たりの飼育羽数は平均10.6羽。また、飼育されている鶏の品種の割合は、名古屋コーチンが25.9%、白色レグホーンが22.5%となっています。
 「実利多産 鶏の飼い方」の中でも興味深い「愛知県の養鶏業が発達した理由」と「名古屋コーチンの来歴と特徴」について、以下に紹介します。
 なお、「愛知県の養鶏業が発達した理由」は本書の第1章「愛知の養鶏」第2項「養鶏発達の原因」を要約したもの、「名古屋コーチンの来歴と特徴」は同書第2章「鶏の種類」第1項「名古屋種」を要約したものです。 

愛知県の養鶏業が発達した理由

  1. 士族授産場での養鶏の奨励
    明治維新の際に禄を失った藩士のため、尾張藩では授産場を設け、いろいろな事業を授けました。その一つに養鶏がありました。
  2. 名古屋種の作出
    旧尾張藩士の海部兄弟が名古屋種を作出したこと。名古屋種は産卵能力に優れ、肉も味がよく、性質が温和で、粗食に堪える飼養しやすく経済的な鶏です。
  3. 農家の経済思想の発達
    農作業の傍ら時間を遣り繰りして副業を営むことが、愛知県特に尾張地方で盛んであること。副業として蔬菜類、苗木の栽培、藁細工。狆、兎、モルモットの飼育繁殖。文鳥、十姉妹、金華鳥、金糸雀等の小禽類の飼育繁殖。
    屋敷内に半坪または一坪の空き地があるときは、ここで数羽から数十羽の鶏を飼育することは他の地方では希なことです。
    尾張地方、殊に丹羽郡、東春日井郡の農家では、冬期に人工孵化の雛を多数購入し、育雛して4、5月の養蚕を始める頃に出荷します。
  4. 分業の発達
    愛知県の養鶏は副業でなく、専業の者が多いために分業が発達しました。人工孵化業、育雛業、食卵採取業、種卵採取業、廃鶏売買業、飼料商などに分化。分業化することで技術上の研究が向上します。また、新たに養鶏を始める者に各分野の専門家が世話をすることにより、養鶏を始める者の経営が安定し、養鶏を営む者の数の増加に繋がっています。
  5. 養鶏組合の組織
    養鶏業の発展に伴い、卵の販売地域や飼料の購入地域が遠隔地に及ぶようになりました。その結果、農家個々では対応できなくなり、明治36、37年頃に養鶏組合が誕生しました。養鶏組合の主な事業は、卵の共同販売と飼料の共同購入です。その結果、養鶏農家は、鶏の飼育に専念できることになりました。
  6. 人工孵卵の発達
    長野県出身の大江亥太郎氏が名古屋に移転し、研究を重ねた後、人工孵卵器を発明しました(大江式孵卵器)。その時期は明治40年頃。それ以前は母鶏孵化であったので、50から100個位しか孵化させられませんでした。大江氏は人工孵卵器の発明と共に、人工孵化した雛の飼育にも努力しました。その結果、人工孵卵器による孵化が一般的になり、一度に数百から数千羽の雛の孵化が可能になりました。そして、愛知県では孵化業、育雛業、採卵業などの事業を行う者が続出し、愛知県が初生雛や百日雛を全国に供給する地となりました。

名古屋コーチン(名古屋種)の来歴と特徴

  1. 来歴
    明治維新の頃、尾張藩の士族授産場では、養鶏のことも教えていました。そのため、養鶏に興味を持つ士族も多数いました。その中でも、海部正秀氏(海部兄弟の弟)は、最も熱心に研究しました。地鶏の産卵数が少なかったので、輸入したコーチン種と交雑させたところ、新しい鶏種の産卵数は多く、肉味も良く、世間の嗜好に適するものでした。そのため、これを飼育するものが次第に増え、明治20年頃には「海部の鶏」または「薄毛」と称されました。京阪地方でもこれを飼育するものが増え、大阪地方で初めは「名古屋コーチン」と称されていましたが、これが何時しか名前となりました。明治28年頃、日本家禽協会が本種の標準を定めました。その後、大正5年に品種名を「名古屋種」と改めるとともに、標準も変更しました。大正8年には、脚の羽を無くすとともに尾の角度等を改めた標準にしました。
  2. 特徴
    我が国の気候風土に良く適し、性質温和従順で、体質強健、寒温に良く耐え、粗食にも耐えます。そのため、飼養管理が容易で、初めて鶏を飼育する者には最適な種類です。欠点というべきところは、就巣性に富み、育雛が巧みなことです。就巣性が高いと産卵能力に影響します。1か年の産卵数は標準で160から170個。1個14から15匁位。卵殻は赤味を帯びています。秋期の換羽中や冬期にも産卵するのが特徴。白色レグホーンは、これらの時期には産卵が最も少なくなります。一方で、この時期は卵価が高騰するので、名古屋種は白色レグホーンに比べて1年間の産卵数は少ないが、収益は遥かに多くなります。また、廃鶏にする1、2か月前から肥育飼育すれば,肉付きが良く、肉味が佳良なので、白色レグホーンなどの卵用種に比べて遥かに高価で売却できます。

このページの作成担当

農業センターdelaふぁーむ 畜産普及係
電話番号: 052-801-5221
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