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堀川の開削

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このページを印刷する最終更新日:2010年10月20日

ページID:3531

ページの概要:堀川の誕生について紹介します。

堀川の開削のバナー画像

名古屋の誕生

名古屋台地と堀川の画像

名古屋城ができる前のこの地方の中心地は、清須(清洲)でした。清須城は手狭で、水攻めへの弱さが懸念されたので、徳川家康は慶長15年(1610)に名古屋台地の北西端に名古屋城を建設し、清須から町ぐるみで移転しました。この「清須越し」により名古屋の町は誕生しました。

堀川の開削

名古屋図(蓬左文庫所蔵)の画像

名古屋の城下町は、熱田の浜から離れた内陸部に設けられました。城下で必要な米や野菜、魚、塩などの物資を大量に輸送できるのは船しかありませんでした。
このため、築城と同じ慶長15年(1610)に、福島左衛門大夫正則により、海に面していた熱田と名古屋城下を結ぶ川が名古屋台地の西に沿って掘られました。名古屋城西の幅下から熱田まで長さ1里半余り(約6km)、幅12から48間(約22から87m)の堀川の誕生です。堀留(上流端)は、名古屋城の外堀に設けられた辰の口(排水口)と水路でつながり、お堀の水が堀川に流入していました。
沿川には堀川の運河機能を利用する施設が配置されていました。碁盤割の城下町に接する納屋橋付近から上流部には、商人たちの蔵が並び、納屋橋の下流左岸には年貢米を収納する大規模な藩の蔵が設けられていました。現在の洲崎橋付近には船奉行や水主という水軍関係者の屋敷が配置され、当時の河口に近い現在の白鳥庭園付近には、御船蔵が設けられて軍船や豪華な御座船が収蔵されていました。また、藩領であった木曽からの木材を貯木する大規模な貯木場が設けられていました。
この図は、名古屋図(蓬左文庫所蔵、享保18年(1733)頃写)です。

白鳥貯木場の水門

白鳥貯木場の水門の画像

平成13年(2001)に行った堀川の護岸工事で、普段は水面下になっている水門周辺の護岸が現れました。この石積みは、江戸時代のものと推定され、保存されることになりました。

堀川七橋

堀川七橋の画像

堀川開削の頃の護岸は素掘りのままで、橋は七ヵ所に架けられ「堀川七橋」と呼ばれました。堀川七橋は、上流から下流に向かって五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋です。五条橋と伝馬橋は清須の五条川に架けられていたものを移築したと伝えられています。五条橋の擬宝珠には「五条橋慶長七年壬寅六月吉日」と堀川の開削より古い年号が刻まれ、現在は名古屋城で保管されており橋にはレプリカが取り付けられています。

このページの作成担当

緑政土木局河川部河川計画課堀川総合整備担当

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