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森治郎

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このページを印刷する最終更新日:2023年10月25日

ページID:89684

〈森治郎〉下之一色の農業と漁業の発展に貢献し、私鉄「一色電車」を開通した人。

森治郎

石像 なごや農業協同組合下之一色支店

プロフィール

氏名

森 治郎(もり じろう)

中川区内のゆかりの地

下之一色魚市場、一色電車車庫跡、松蔭公園、共愛病院、なごや農業協同組合下之一色支店

人物の紹介

 森治郎は万延元(1860)年、下之一色村で代々庄屋を務める大地主の森家に生まれました。父の治平は村長から愛知県会議長を勤め、愛知県水産試験場を下之一色に誘致するなど、下之一色漁業の発展に貢献しました。

 森治郎は明治28 (1895)年に下之一色農会を設立し、その約10年後には当時では画期的な田畑の耕地整理事業を行いました。大正元(1912)年には下之一色信用組合(後の農業協同組合の前身)を設立し、組合長に就任しました。また漁業に関しても、明治36 (1903)年に下之一色漁業組合を設立して初代の組合長になりました。漁業者のための組合病院を作り、それは昭和7 (1932)年には一般にも公開した共愛病院になりました。大正元(1912)年には下之一色魚市場を開設し、仲買制度を確立しました。さらに名古屋の市街地へ魚の行商に行きやすいように「下之一色電車軌道株式会社」を設立して、翌年には下之一色から尾頭橋までの私鉄「一色電車」を開通しました。一色電車は昭和12 (1937)年に名古屋市が買収して、市電・下之一色線になります。一色電車会社は大正14 (1925)年に松蔭遊園地を開発して運営し、海水浴場として賑わいました。昭和22 (1947)年に88歳で逝去するまで、地域の発展に尽力しました。地元では父の治平から治郎やその子孫までの一家を森様と称して尊敬しています。なごや農業協同組合下之一色支店の横には森治郎を顕彰する石像があります。

参考文献

後藤邦四郎『森治郎翁伝記』耕地整理組合

新修名古屋市史民族部会『下之一色地区民俗調査報告書新修名古屋市史報告書-3』名古屋市総務局

加藤良一『遅かった八月十五日―大正生まれと大東亜戦争』 他

『中川区人物事典』とは

『中川区人物事典』とは、中川区で誕生や活躍などされたゆかりの深い偉人、有名人を紹介するものです。

中川区ゆかりの人物について、区民をはじめとする多くの市民に知ってもらい、人物を通して区の歴史や文化、産業を再発見し、地域への関心を高める目的で実施しています。

(注)掲載されている写真や文章等を、無断で転載、複写することを固く禁じます。

このページの作成担当

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