ページの先頭です

ここから本文です

お堀電車

ソーシャルメディアへのリンクは別ウインドウで開きます

このページを印刷する最終更新日:2018年7月27日

ページID:107342

お堀電車紙芝居表紙

「お堀電車」
作 堀川文化を伝える会
絵 むらおか さちこ

紙芝居1ページ目

名古屋城はみんなが知っている名古屋のシンボルです。天守閣の屋根に輝く金のしゃちほこや、昔あった御殿をもう一度作ろうとしていることは、みなさんもよく知っていますね。ではお城の周りにお堀があることを知っていますか。お城の周りにわざわざ溝を作って、敵が攻めてくるのを防いだのです。その溝をお堀といいます。名古屋城にはいくつもお堀が作られましたが、いちばん外側の堀が外堀です。この絵地図の赤い線で示した約2kmの外堀を、40年ほど前の昭和51年まで、「おほり電車」と呼ばれる電車が走っていました(ちょうどみなさんのお父さんやお母さんが赤ちゃんの頃のことです)。お城のお堀を走った電車は、日本でも名古屋のここだけでした。

紙芝居3ページ目

おほり電車は今から100年以上前の、明治44年に出来ました(みなさんのひいおじいちゃん・ひいおばあちゃんが子供の頃のことです)。名古屋の東に瀬戸という町がありますが、そこは昔から瀬戸物と呼ばれるお皿やお茶わん作りが盛んで、今でもたくさん作られています。おほり電車は瀬戸で作られた瀬戸物を運ぶための貨物電車でした。おほり電車が出来て、たくさんの荷物が一辺に運べるようになり、瀬戸のお皿や茶わんは、日本中に広まったのです。

紙芝居3ページ目

瀬戸でおほり電車に載せたお皿やお茶わんは、おほり電車の終点の堀川という駅まで運ばれていました。(今みなさんが船に乗っている)堀川を使えば、名古屋港まで船で行くことが出来ます。堀川駅で降ろされた荷物は、電車から船に積み替えられ、堀川を通って名古屋港まで運ばれました。それから名古屋港でもっと大きな貨物船に積み替え、日本だけでなく、外国へも売られていきました。その頃日本の物の中で、外国でいちばん売れたのが名古屋港から積み出された瀬戸物だったのです。おほり電車の終点、堀川駅の周りは、荷物の積み替えをするために、大勢の人が働くとても賑やかな場所でした。

紙芝居4ページ目

もともとお城のお堀だった狭いところを走るおほり電車は、いろいろな工夫をしていました。絵地図で見たようにおほりの角のところは、とても急なカーブ(サンチャンカーブと呼ばれていました)になっていて、普通の電車よりもずっと遅い、時速20km位のスピードでゆっくりと曲がっていました。またおほりの石垣に橋が架かっているところ(本町橋)は、幅が狭くて2つの電車がすれ違えないので、上りの線路と下りの線路の2本を重ねる(ガントレット-絵を示す)珍しい工夫がされていました。急カーブや、2車線が1車線になるなど、おほり電車はスピードを出して走ることは出来ませんでしたが、そのゆったりとした走りこそ、たくさんの人が親しみを込めて、おほり電車と呼ぶようになったのだと思います。

紙芝居5ページ目

今から70年ほど前(昭和20年)に戦争が終わり、それから日本が目覚ましい発展をするようになると、たくさんの荷物を運ぶには、船に代わって、トラックが使われるようになりました。トラックは送り先から港まで、荷物を積み替えなくても済み便利だからです。おほり電車も荷物に代わって、電車に乗って会社や学校に通う人の方が、たくさん利用するようになりました。電車に乗る人たちは、名古屋の中心の栄まで乗り換えなしで行けるようにして欲しいと言うようになりました。約70年間走り続けたおほり電車は、(40年ほど前の)昭和51年に廃止されました。今は地下を通って栄まで電車が走っています。おほり電車が走っていた跡は、大津町という駅があった場所に、階段が残っているだけです。みなさんはおほり電車のことを知りませんが、世界に向けて瀬戸物を運んでいた、おほり電車が大切な役目を果たしたことを、これから伝えていって欲しいと思います。

このページの作成担当

中区役所区政部地域力推進課地域力推進担当

電話番号

:052-265-2221

ファックス番号

:052-261-0535

電子メールアドレス

a2652220@naka.city.nagoya.lg.jp

お問合せフォーム

お問合せフォーム

ページの先頭へ