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瑞穂区の産業文化

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このページを印刷する最終更新日:2022年8月19日

ページID:49017

ページの概要:瑞穂区の産業の歩みを紹介するページです。

瑞穂区の西部は世界的な大企業が立地する産業の拠点です。瑞穂区の産業文化(ものづくり文化)の魅力をもっと知ってもらおうと、平成24年度より、区内企業の工場をめぐるバスツアーや、生涯学習センターにおいて瑞穂区のものづくり文化を学ぶ講座を開講してきました。現在は夏休みに「発見、瑞穂のものヂカラ!」と題して、区内に本社のある企業を訪れてモノづくりについて学ぶ企画を行っています。

このページでは、瑞穂区の産業の歩みを振り返ります。

瑞穂区の産業の歩み

麦稈真田(明治初期から明治後期)

明治時代の瑞穂区の農業

 名古屋の近郊にある瑞穂村や弥冨村は、明治に入ってからも農業が中心であった。稲作は山崎川に沿った低地、瑞穂台地の西を流れる精進川に沿った低地および弥富丘陵の南を流れる天白川沿いの低地に広がっていた。畑作は瑞穂台地で行われ、麦の栽培が盛んにおこなわれていた。

麦稈真田の製造

 瑞穂台地でとれた麦を使って、明治10年代から麦稈真田が製造されるようになった。麦稈真田とは、麦わらを平たくつぶし真田紐(平たい織紐)のように編んだもので、明治4年(1871)河田谷五郎によって考案されたとされている。河田は当時横浜で町役人をしており、外国人がかぶっている麦稈帽子を見て麦稈真田を考案した。
 明治16年(1883)に愛知郡山崎村の人が麦稈真田の伝習を受けて帰り、その製作を開始した。それ以来、熱田を中心に付近の集落にも同業者が増加し、明治20年(1887)、愛知県麦稈真田同業者組合が設立され、中国大陸にも輸出されるようになった。なかでも、同年、熱田に麦稈明商社が設立されたことは、瑞穂の農家に大きな影響を与えた。
 製造は、主として農家の女性が内職で夜なべ仕事にしていた。麦を青刈りして天日で干し、硫黄で漂白し、平らにして糸で紡ぐことができるようにするまでが仕事だった。当時、貴重な現金収入のみちで、男が兵器製造所で働いても日給25銭であったのに、器用な娘であれば、1円もとれてとてもいい内職であったといわれている。このように、麦稈真田は明治初期の瑞穂区の主な産業として発展していった。しかし、その後、木材を紙のように薄くけずった経木を編んで作る経木帽子や有松絞の括りの普及により、麦稈真田の内職は徐々に行われなくなった。

養鶏業(明治後期から昭和)

瑞穂区における養鶏業の起こり

 かつて名古屋市は“養鶏王国”と呼ばれるほどに養鶏業が盛んであった。そして、その中心地は瑞穂区であった。瑞穂区における養鶏業は廃藩置県により、失職した武士が生活費を得るために養鶏をはじめたことが起源である。明治20年代には、旧尾張藩士、海部壮平・正秀兄弟が、尾張の地鶏と中国のバフコーチンとを掛け合わせて新種の鶏を作りだした。これが名古屋コーチンであり、粗末な餌でもよく育ち、多産で肉質も優れていたことから評判を得て、明治38年(1905)、日本家禽協会が新種として公認した。

明治における養鶏業の発展

 名古屋コーチンが関西方面へ多く進出したことで、瑞穂区の養鶏業は有名になっていった。明治39年(1906)には、長野県から来た大江亥太郎が大喜で人工ふ卵業をはじめ、人工飼育が奨励された結果、養鶏はますます盛んになった。そして、明治44年(1911)に井戸田養鶏組合(組合員数8)、翌45年に大喜養鶏組合(組合員数16)が設立された。また、農家では雑穀を飼料にして庭先で10から30羽程度の養鶏を行っていた。

大正時代の養鶏業

 大正時代になると、千羽以上の鶏を飼育していた大養鶏家が出現していた。その一方で、組織だった分業化もはじまり、現大喜町付近に大喜種禽孵化場が開設され、養鶏家は卵から返した雛を成禽に育てる若鶏つくりの形態が続いた。大正11年(1922)には、名古屋市養鶏組合連合会が創設され、この地方が養鶏王国として全国的に有名になった。

昭和時代の養鶏業

 昭和に入ってからも養鶏業は盛んで、昭和初期の頃には、瑞穂区に鶏の雌雄鑑別という新しい職業が発生した。雛の雄雌を鑑別することで雌鶏だけを効率よく飼育できるようにしたのである。その鑑別師の養成機関である社団法人全日本初生雛鑑別協会の鑑別師養成所が瑞穂区の瑞穂通3丁目11番に置かれていた。
 このように発展していった養鶏業であるが、第二次世界大戦により、飼料の統制が強化され、飼育数が減少した。そして、終戦当時の飼育数は皆無に等しかった。当時は如何に復興するかが憂慮されている状態であった。
 しかし、戦後戦災の復興とともに養鶏も再出発を果たした。昭和24年(1949)には鶏卵の品不足に伴い、価格が高騰したことも手伝って、順調に飼育羽数を伸ばしていった。再興の初期には一般家庭での自給用の飼育も多く見られたが、徐々に衰退していき、専業養鶏家がほとんどとなった。飼育方法も近時バタリー式と呼ばれる、立体的に鳥かごを積み重ねてまとめた飼育舎を使用する方法が採用され、より多くの飼育が可能となった。
 また、昭和30年代には耕地整理・区画整理の影響で市街地化が進み、衛生上の都合により、飼育戸数が減少していった。そのため、1カ所で大規模な飼育を行うようになり、飼育羽数自体は2万羽程度と最盛期と変わらないが、養鶏家が多数あった明治や大正の姿とは大きく異なるものとなってしまった。

近代産業のはじまり(明治後期以降)

瑞穂区における近代産業の起こり

 今では、多くの大きな企業が存立する瑞穂区であるが、明治時代末期までは大きな工場などは存在しなかった。現在多くの企業や工場がある瑞穂区西部も、明治時代は水田であった。精進川(現在の新堀川)の川幅が狭く、頻繁に氾濫し、大きな被害をもたらしていたため、工場を立地する場所としては適さなかったのである。
 明治時代に日露戦争がはじまるころ、熱田に兵器工場を建てるにあたり、多くの土砂が必要となり、精進川から掘り出された土砂を利用することとなった。工事は5年の年月をかけ、明治43年(1910年)に完成し、翌年、川名を新堀川と改めた。この工事により、流路延長5.95キロメートル、流域面積23.4キロメートルの新運河が完成し、物資の運搬等の利用が出来るようになった。これにより、瑞穂区の新堀川沿岸部に多くの工場が建てられるようになった。また、大正時代になると、耕地整理が行われ、それまで水田として利用されていた土地にも多く工場が建てられたのである。

瑞穂区における近代産業地域の発展

 明治43年(1910年)に河川の改修が竣工し、新堀川沿岸にはたくさんの企業が設立または移転してきた。大正8年(1919年)には、日本碍子(現在の日本ガイシ株式会社)が日本陶器株式会社より碍子部門を分離独立し、瑞穂区に設立した。また、昭和8年(1933年)合名会社エルモ社(現在の株式会社エルモ社)の工場が瑞穂区に建設された。昭和12年(1937年)に株式会社中央製作所が現在の内浜町あたりに設立された。昭和14年には小林製作所(現在の株式会社パロマ)が瑞穂区に工場を移転した。
 このように、現在にまで残る大きな企業が、続々と瑞穂区に拠点を置くようになった。このことから、瑞穂区における近代工業の発展は、新堀川によるところが大きいといえるだろう。

 

(参考文献・資料)
『名古屋市史』名古屋市
『なごやの町名』名古屋市
『区政概要』名古屋市
『名古屋の史跡と文化財』名古屋市教育委員会
『名古屋市 史跡・名勝地図』名古屋市教育委員会
『瑞穂区-その生い立ちから-』瑞穂区役所
『瑞穂区誌』瑞穂区役所

このページの作成担当

瑞穂区役所 区政部 地域力推進室 地域力推進係
電話番号: 052-852-9303
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