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第3章 「お前はどこから来てどこへ行くんだ?」

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このページを印刷する最終更新日:2015年8月31日

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第3章 「お前はどこから来てどこへ行くんだ?」

前回のあらすじ

第2章では、古橋さんのトガッた(笑)学生時代の思い出を語っていただきました。まだまだ学生時代の話が続きますが、ここからは「まちづくり」の世界に出会う転機となったアラスカ留学の話から始まります。

 

本編

司会:

で、まちづくりにはいつ頃出会うことになるんですか?転機のようなものはあったんでしょうか?

古橋:

転機という意味では、まちづくりに出会う前に、アラスカに1年間の交換留学に出かけました。一応大学の公費で行くので、選抜なんですね。それで、試験がありましたから、それに向けて周りを巻き込みながら大騒ぎで勉強しました。それまでにないくらい勉強しましたね。たくさんの先生や仲間に助けてもらって英語を勉強したんですよ。でも目標点数みたいものは届かなかったので、ダメかと思っていましたが、たまたま平均点が低かったのか、面接が良かったのか、わかりませんが、その試験に合格してしまったんですよね。

司会:

それはいつのことなんですか。

古橋:

勉強をしたのは3年生の10月から12月の2ヶ月です。本格的な就職活動が始まる直前ですね。留学が決まってしまったので、就職活動はしませんでした。留学は翌年の夏からなので、必然的に4年生の夏から1年渡米するので留年することになりました。浪人した上に留年してね。お金ないとかいっているのに、やりたいことはやっているみたいな(笑)。まちづくりに出会うのは、帰国してからのことです。

 

議論を交わす古橋さん

 

司会:

それ、どういう流れなんですか。留学とまちづくりは何か関係するんですか。気になります。

古橋:

僕が留学をしたのは、1999年の夏からでした。僕が留学したのはアラスカ。アメリカ合衆国ですが、カナダを挟んでさらに北にある州です。アラスカという土地には、イヌイットやエスキモーなどの原住民がロシアやアメリカの同化政策を受けてきた歴史があります。原住民は、文字のない口承伝承による文化が特徴です。そこにロシア語や英語教育が施されると、祖父母と孫が会話できなくなり、文化の伝承が途切れてしまう。子どもは大きくなって、どんどん他の文化を知っていきますね、アラスカの若い人たちは Lower48(アラスカより下にある米国土48州)へ降りて行って、新しい文化に魅せられていく。

いままでたき火を使っていた人が、ガスで火がつくのを目の当りにするのは衝撃的だったでしょう。人は誰しも便利な文明社会に一度は憧れる。どの文明もがたどってきた当たり前の流れです。でも、口承伝承の文化には文字そのものがありませんので、それを普段から受け継ぐようなコミュニケーションが機能していないと、ある日祖父母の誰かが亡くなってしまえば、それまでに長らく受け継がれて来た一族の文化そのものが消えてしまいます。それは、考え方であり、生き方で、私はどうあるべきかなど、その民族が生きて行く上での大切なアイデンティティを伝承する機会が失われてしまうことでもある。

誰でもそうだと思いますが、自分とはなにか?どんな仕事にしていこうか?って悩みますよね。自分に何ができるのだろう。できれば、いままで自分を活かせることで働きたい、生きていきたいと考える。そして、身近な大人は何をしてきたのかとかと周囲に訪ねてみたり、本を開いてみたりしますよね。でも当時のアラスカには、その一大事のときに頼るものがなかった。言葉も通じないし、文字がないから本もなかったのです。これ大変なことです。そうした中で起こって来たことの1つが、民族再生運動でした。

僕が留学した時も、そうした運動や活動は引き継がれていたようで、僕が最初に仲良くなった独特のなまりのある英語を話す人々は、まさにそうした民族再生のプロセスの中を生きるアラスカ原住民の子孫達でした。彼らは、当たり前のように「お前はどこから来てどこへ行くんだ?」と聞いてくるんです。そうした民族再生のプロセスを学ぶ講義もありました。それは、哲学であり考古学であり、はるかなる物語の世界の話だったりします。大きな世界観の中で自分が何に所属していて、どんなコミュニティの中に活かされているのか、そこを土台に、今どうあるべきなのかということを考えていく。しかも、それを語り合うことが、教室でもカフェバーでも日常的になっている。日本では考えられないことでした。

とにかく向こうでは、自分を表現することが求められる。英語なんか全然しゃべれないで行ったので、英語以外のことで勝負するしかありません。例えば、料理をし、子どもたちにサッカーを教え、日本語教室の先生をやり、オーロラのツアーガイドまでやりました。でも、そうするとどんどん友達ができちゃう。それが面白くて。いつの間にか英語にも困らなくなっていて、それはそれは楽しい留学生活でした。

こうして振り返ると、当時の僕は、人と社会に関わることとか、生き方やコミュニティ活動を通して何かを実現するということを当たり前と考える人たちに囲まれて留学生活を送っていたようです。ところが帰国すると、そんな話が通じる人がどこにもいませんでした。帰国後は、留学仲間の多くも、就職モードになってしまい疎外感がありました。今思えば、逆カルチャーショックにあっていたんですね。

 

みなとイルミナートでのアーティストトークの様子

(近年定着してきている「みなとイルミナート」でのアーティストトークの様子。)

司会:

なるほど。なんか深い話っすね。

古橋:

いやいや。我ながらめんどくさいところがあるんで(笑)。一体何のために留学したんだろうという自問自答もかなりしました。それで、僕にできることをやっていこうと思って、気の合う留学仲間達と一緒に「英語ができない人が留学するためにはどうすればいいか」という自主講座を開くようになりました。そこに英語できないけど留学に行きたいという困った人たちがいっぱい集まってきて、ワイワイ楽しかったです。建前は留学するためにどう勉強すればいいかってことでしたが、留学をテーマにしつつも、意識していたのは、自己実現ということだったと思います。どう生きていくか、どんなふうに働いていくのか、何をしたいのかっていうすごく漠然とした問いを、でもストレートに語りあう。そこには名古屋学院大学に来ている海外からの留学生も集まってきて、なかなか素敵なグループが出来上がっていたように思います。

一方、僕が帰国した 2000年頃といえば、2005 年に愛知万博がやってくるということで、街中に万博開催のムードが広がっていました。名古屋学院大学は、瀬戸市にありましたので、大学としてもそうした地元を盛り上げて行くための役割が求められていた。大学は、最高学府と呼ばれる地域の学術機関なわけです。地域の課題に学術的ソリューションを提案するのは大学の一つの使命だったりする。今では、2018年問題とかいって、18 歳人口の減少が課題視されていますが、それは当時から危惧されていたことでした。大学も競争にさらされる。僕は、当時から、大学がコマーシャルするのも大切だけど大学本来の使命を果たすことで PR することだって可能ではないかと考えていました。ぼくは落ちこぼれなのに留学に行かせてもらったので、大学に恩義がある。だから、恩義のある大学が使命を果たすなんて話に弱いんですね。そういう話を仲の良い先生から聞かされて「じゃ、大学を盛り上げていきましょう」ということになりました。

当時は、まちづくりなんて言葉も知らなかったし、よくわかっていなかった。たまたま縁あって、瀬戸市の中心市街地にある銀座通り商店街で行われたまちづくりイベントのお手伝いに出かけていったんです。商店街は衰退が激しかったですが、瀬戸に万博がやってくるし、なんとか中心市街地を盛り上げて、国際博覧会を成功させましょうって機運がありました。

しかし、商店街へ行ってみると、「お!若い子が来たなぁ、女子大生もいるのか!おお!外人も連れてきたのか、君たちいいねぇ」、という感じ。利用してやろうという雰囲気が満々なんですね(笑)。これはいかんと思ってですね、僕の仲間達を利用されてはいかんと思ったんです。でも、とにかく人を集めて欲しいと頼まれたので、とりあえず人を集めてイベントに参加したりしていた。でも、やっぱり物足りなくて、「僕らは労働力じゃない。企画からやらせて欲しい!」って提案するようになりました。

何か一緒にイベントをすると、「この荷物が重たいなぁ」「あ、じゃ俺が持ちます」、みたいなことが起きますよね。現場があっていい仕事があると、自然と人はつながっていくものなんでしょうね。人は、誰かに必要とされたい生き物とかいいますよね。でも、必要とされたいって思うけれど、自分は何の役に立つか分からなくて、経験もなくてどうしていいかわからない。そんな子たちが、いろいろと考えて「留学に行きたい」と決意するのかもしれませんね。

実は外国になんか行かなくても足下の地域の中に入っていくと、おじさんおばさんたちは若い子が来てくれただけでただ嬉しい。最初は、腹としては利用してやろうと思ったりもするんですが、一緒に語り、ラーメン食べてカラオケいって・・・とやっていると、いつの間にか自然と仲良くなっていく。当時を振り返ると、一番あたまでっかちなのは僕だったと思います。商店街の皆さんと留学生の間で英会話の授業が始まったり、パソコンの使い方やネット接続の相談会が行われたり、みんなでカラオケ行ってそのまま朝まで語り合ったとかいうことがどんどん起きていきました。そんなことが僕らの日常になっていきました。

おもしろかったのは商店街の人たちも、自分の息子、娘とはそういう付き合いをしていない。僕もそうでした。大学生になって親と買い物に行くのはちょっと恥ずかしい、人生を語り合うなんて絶対に無理。でも自分の親とはできなくても、商店街の人とは、ふっと話が出来る状態が自然と生まれていきました。その時はまだ「まちづくり」といった言葉なんて知らなかったんですが、そこには確かに僕らの居場所があったんです。

 

「みなとイルミナート」体験型アトラクションの様子

(みなとイルミナートでは多くの体験型アトラクションが地域内で展開される。)

司会:

まちづくりって、そんなところから始まるもんなんですよね。

古橋:

そうですね。でも、僕が「まちづくり」って言葉を明確に意識したのにはきっかけもありました。当時の僕らの仲間の1人に、筋ジストロフィーの後輩がいたんですね。その子は「僕は障がいを持っているけど、何か社会の役に立ちたい」という。社会の役に立ちたいと言っても、1人ではトイレにもいけないし、階段も上れない。困った、どうしようと思っていた時、「五体不満足」という本に出会いました。「強烈なタイトルだなぁ」と思って読んでみると、著者の乙武さんが早稲田大学の学生として「いのちのまちづくり実行委員会」に関わるくだりに目が止まりました。早稲田大学って、街の真ん中にあって、壁がなくて、街に開放された大学なんですよね。だから、大学生がいる時期は、街が潤うが、夏休みになって学生が帰省すると閑散としてしまう。その閑散としてしまう街の商店街人たちの中に、まちづくりの仕掛人達がいて、「いのちのまちづくり実行委員会」というのを組織してまちづくりを行っていたのです。

その仕掛人たちは、こんな趣旨のことを言っていました。「僕たちは今まで、教育の問題を見据えて色々考えてきたけども、環境のことにぶつかる。環境のことを考えて色々活動してみると、今度は行政のことにぶつかる。それならもっと総合的にこの社会をよくするために何ができるかと考えないといけないと思って、まちづくりという視点にたどりついたんだ」と。これを読んだとき「これだ!総合的!」という閃きがありました。僕のまわりには障がい者も留学生もいて、また、英語がしゃべれるけれども中身はこれからの奴だとか、元気だけはある輩とか、課題は多いけれど、面白い奴らがたくさんいた。だから、愛しいこいつらが自分自身を活かせて、みんなで面白いことができたら楽しいだろうな。それには「まちづくりだ!」って思ったんですね。今思えば、かなりの勘違い野郎です。

で、まぁ後輩たちに向かって演説をぶったんです。「留学した時には日本人とは何か、そこが問われる。日本の社会でまちづくりの活動をすることが将来留学先で絶対役に立つ」と。でも、みんなポカーンとするわけです。「敬一さん、何言っているんですか?」って。だから最初は誰もついてきてくれなくて、ちょっと大変でしたが、イベント行こうよ、踊りやろうよ、お店出して何かやろうよってさんざん苦労しました(笑)。でも、具体的な活動があると、みんなワーワーいって手伝ってくれた。

その頃、僕は大学院には進学していましたが、まだまだまちづくりを語る言葉を持っていなかったし、まちづくりの歴史とか、まさか都市計画に拮抗して始まっただとかは何も知らなかった。とにかくみんなの個性を活かして、「総合的に」かかわったら、この社会が良くなるかもしれない、って。こういう社会へのかかわり方があるんだという思い込みだけは人一倍でした。でも、いろいろな知識や経験を身に付けた今も、その閃きは色あせていませんね。

そもそも卒業の手前で留学に行った時点で、僕は社会に出るのを逃げていますから、社会への関わり方を考えることは、僕の潜在的なテーマでもありました。大学院に行き、まちづくりのことを勉強しながら、愛知万博にも関わろうということを漠然と考えていただけでした。でもそんな日々を始めてしまったので、後輩からは「敬一さん、まちづくりって何をしたいの?」って聞かれる。「なんだろうねぇ」って困るわけです。なかなか難しかったです。毎日が実践という感じでしたね。

司会:

いろいろ考えてたんですね。実際、まちづくりに関わってみてどうでしたか。

古橋:

めちゃめちゃおもしろかったです。もちろん、いろいろ大変でしたけど。まちづくりの現場からすれば、そんなにいろいろ考えながらまちづくりに関わってくる奴らは、うっとしいところもありますけど、やっぱり嬉しいですよね。実際のまちづくりの中に、学生達が単なる労働力や当日ボランティアを越えて関わるというのは、当時はまだまだ珍しかったんじゃないでしょうか。

司会:

でしょうね。

 

「あかり玉」の写真

(地域の皆さんでつくった「あかり玉」。地域を彩るやさしい明かりが冬の風物詩となっている。)

古橋:

それで、商店街のみなさんとワイワイやっていたところ、大学の先生からお声掛けをいただきまして、先程話した大学が地域社会の課題を解決するまちづくりという流れとつながっていくんですね。大学と連動したことで、最初にやったことは、商店街の中に、学生の拠点をつくることでした。僕らは、大学の支援のもと、まちづくりサークルを組織していましたので、その事務所として空き店舗を改装したんです。もちろん、僕らの手作りでした。理事長さんの好意で貸していただいたんですが、今考えると奇跡的なことがいっぱいありましたね。実は、僕らが事務所を改装しているときに、その隣の空き店舗では、商店街の皆さんが事務所として使っていた空き店舗を改装して、お休みどころとしての茶屋(和風カフェ)を改装中でした。こちらも、かなり手作り工事(笑)。もちろん、大工さんはいたんですが、手を動かしていたのは商店街の皆さんで、当然僕らも大いに手伝いました。楽しかったですよ。どこかの閉店した店舗から、椅子やら机やら大型冷蔵庫やらを運んだり、ペンキを塗ったり、さらにはメニューまで一緒に考えたりして。準備が間に合わなくて、関係者は徹夜続きで準備。一気に団結力が高まりましたね。お店と事務所の開店は、同じ日にやったんですが、大学も行政も応援してくれていますから、メディアにもいっぱい取り上げてられて本当に大騒ぎのイベントになりました。

その後も、ふたつの場所は、いろんな人たちの新しい居場所になっていきました。僕らの事務所も、その1年後には、カフェに改装しましたね。やがて全国から視察が来るようになりました。これがきっかけになってか、商店街にあった空き店舗もどんどん埋まりましたね。最終的には、がんばる商店街77選といって、全国で数千ある商店街の中の77の一つに選ばれるという快挙にもつながりました。

司会:

なるほど。商店街の活動が原点になっているんですね。改装したカフェというのは、古橋さんが初代店長を務めていることで有名な「マイルポスト」というお店ですよね。

古橋:

はい。商店街共創事業というフレームで、県と市と商店街がそれぞれに出資して、商店街で学生がインターンしながら活性化の一翼を担うというプロジェクトでした。学生の力で空き店舗を改装し、マイルポストという名のカフェをオープンさせました。マイルポストというのは、道しるべという意味。実は、僕が留学していたアラスカでは有名な地図の名前でもあるんです。アラスカはほとんど信号機がないので、マイルポスト1冊あればどこでも行けるなんて、キャッチフレーズがあるくらいで(笑)。それはともかく、あのカフェに行けば、美味いコーヒーが飲めて、美味しいご飯が食べられる。そして、いろんな人がいて、励まされたり勇気をもらえたりできる。人生の道しるべになるようなそんな出会いがあるカフェをつくりたい。そんなことを考えていました。

実際、マイルポストが拠点になって、数々の活動が展開されました。今でも、熱田区の名古屋学院大学の日比野キャンパンスには、後輩の皆さんが元気に営業を続けてくれています。それぞれの時代を担う人たちが精一杯力の注げることをやればいいと思っています。でも、マイルポストという居場所が今も続いているのは嬉しいかぎりです。

 

次章へ続きます。 第4章 愛知万博での挑戦 ―社会貢献と自己実現―

 

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