ページの先頭です

桶狭間の戦いに関する史跡をご紹介します!

ソーシャルメディアへのリンクは別ウインドウで開きます

このページを印刷する最終更新日:2020年6月25日

大河ドラマの舞台となった地を見てみよう

令和2年の大河ドラマでは、緑区内の桶狭間の戦いに関する地名や史跡がたくさん登場しました。

緑区の史跡・名所巡り」でご紹介しているスポットの中から、桶狭間の戦いに関する主な史跡を抜粋してご紹介します。

※★マークのついている史跡は、「大河ドラマ紀行」の中で紹介されたスポットです。

史跡をめぐる方へのおねがい

いずれの史跡も住宅街の中にあり、周辺が細い道になっている場所も多いので、公共交通機関の利用をおすすめします。

路上駐車や大きな声などで、地元の方のご迷惑にならないようご協力ください。

大高周辺のみどころ

鷲津砦跡★

鷲津砦跡の写真

大高駅北200メートルの地点にあり、永禄2年(1559年)織田信長が今川氏に対抗するために丸根砦とともに築いた砦であり、大高城と丸根砦との三角形の位置にある。標高35メートル、東西40メートル、南北六69メートルの広さである。桶狭間の戦いの時、飯尾定宗、その子信宗、織田信平ら、500余人が今川勢の朝比奈泰朝ら2,000余人の軍勢に攻め立てられて大半が討死している。南北朝時代(1331年から1392年)尾張の守護土岐頼康の一族に鷲津殿、島田殿、萱津殿と称した家があり、鷲津殿のいた所はこの鷲津山であった。土岐氏の老臣花井・富田の二氏が尾張に来て守護代を勤め花井氏が鷲津方、富田氏が富田方 (現東海市富木島町=富田村+木庭村+姫島村)を支配し、土岐氏との関係から離れて独立すると両者はこの地で抗争を続け、大高は花井氏が支配した。昭和13年に国の指定史跡となった。

丸根砦跡★

丸根砦跡の写真

鷲津砦の東南700メートルの地点にあり、鷲津砦と同じく信長の築いた砦で標高35メートル、東西36メートル、南北28メートルの楕円状のこぢんまりした砦で一部郭と濠が形を残している。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの時、佐久間盛重が手勢700人で守り、松平元康ら今川勢の軍と激戦したところで鉄砲が使用されたといわれる。この砦の陥落で今川義元は沓掛城より桶狭間をとおり大高城への進路を確実にして熱田をへて清須の織田本拠を攻める手立てを考えていたのであろう。昭和13年大高城跡、鷲津砦跡とともに国の指定史跡となった。

大高城跡★

大高城跡の写真

大高城跡は寛文相々覚書によると標高20メートル、東西106メートル、南北32メートルの台形の丘で四方に二重の濠があったが、現在は土居、内濠とも形態はほとんど認めがたい。古くは天白川の北方は年魚市潟といわれこの地からの景観は絶景であった。築城年代は不詳であるが、永正年間(1504年から1521年)の頃に土岐氏の守護代出の花井備中守が、天文・弘治(1532年から1557年)の頃には知多郡東浦の水野忠氏・大膳父子が居城した。桶狭間の戦いの直前に鳴海城主山口左馬助に攻められて落城。今川方の鵜殿長助の支配下にあり、織田信長が鷲津・丸根の砦を築いて対抗したが、松平元康(徳川家康)が弱冠17歳で兵糧入れに成功したのは有名。合戦後元康は岡崎に帰り、廃城になった。その後元和2年(1616年)志水忠宗(1574年から1626年。徳川義直公の母相応院の兄)が尾張藩の家老(一万石)として城跡に居宅を設け明治3年(1870年)に廃した。昭和13年に国指定の史跡になった。本丸西端に鶴岡八幡宮を勧請した城山八幡宮があり、寛文10年(1670年)に志水甲斐守が寄進した石灯籠がある。

鳴海周辺のみどころ

善照寺砦跡★

善照寺砦跡(砦公園)の写真

桶狭間の合戦の織田方の陣地。永禄2年(1559年)に対して織田信長が築いた3つの砦の一つで丘陵の東端がその跡である。砦跡は東西24間(43メートル)南北16間(29メートル)と伝えられ、四方を望見できる見晴らしがよい。信長は合戦に先立ち兵を集め、本隊が駐留しているように見せかけ幟・旗を残して密かに桶狭間へ移動し奇襲をかけたといわれる。現在は公園で遺構は確認できない。近年まで老松が茂り砦の松として親しまれていたが、枯死して若松が植えてある。またはるか南東方向に桶狭間や大将ケ根の尾根等が手に取るように眺めることができ地形上、昔も今も変わらない。公園内には鳴海絞開祖の三浦玄忠(豊後高田藩竹中候の侍医)夫人の碑がある。

中島砦跡

中島砦跡の写真

丹下・善照寺の3つの砦で鳴海城を包囲するために織田信長が扇川と手越川の合流点に築いた砦で梶川平左衛門以下260名の武士を配置した。規模は長さ80間(144メートル)、幅50間(90メートル)ともいわれ、信長は善照寺砦からこの砦を経て桶狭間に向かった。砦が廃された跡は梶川の五輪塔が残されていたが今はなく昭和2年「中島砦址」の碑が建てられた。近くに古道の車路橋がある。

丹下砦跡

丹下砦跡の写真

光明寺から裏手の清水寺遺跡にかけて、織田信長が永禄2年(1559年)3月に築いた今川義元の上洛に備えるため、善照寺、中島、鷲津、丸根など一連の砦の一つである。東西84メートル、南北78メートルで信長公記によれば水野帯刀、山口海老之丞、柘植玄蕃允らが勤めた。

天神社(鳴海城跡)

天神社の写真

庚申坂を上ると一帯は元鳴海城跡の地で大木が鬱蒼と茂り、高い石段を登ると丘であったが、切通しの広い道ができ、今は石垣で組まれた天神社で、成海神社の旧地である。神社は日本武尊を祀る朱鳥元年(686年)の創建。室町時代応永3年(1394年)安原備中守宗範が社殿を北の乙子山に移転させ、鳴海城を築城した。後に織田信秀の家臣山口左馬助父子が城主だったが、今川方に寝返り、永禄3年(1560年)桶狭間の合戦の時には、岡部五郎兵衛元信が城主だった。城は落城せず合戦後に主君義元の首と交換で明け渡し、天正18年(1590年)廃城になり成海神社の御旅所として天神社が祀られた。ここに昭和18年(1943年)元信の末裔、時の文部大臣岡部長景撰の「鳴海城址之碑」が建立された。また芭蕉が鳴海で詠んだ「杜若われに発句の思いあり』『京まではまだ半空や雪の雲』『よき家や雀よろこぶ背戸の粟』など3つの翁塚がこの地の書道家宇佐美魚目氏の揮毫により平成3年春に建立された。現在西の丸跡は城跡公園として整備された。

桶狭間周辺のみどころ

下記の「桶狭間周辺のみどころ一覧」をクリックしてご覧ください。

桶狭間周辺のみどころ一覧

(紹介スポット)

戦評の松、長福寺、瀬名氏俊陣地跡、おけはざま山、桶狭間古戦場公園★、七ツ塚、桶狭間神明社、釜ケ谷、高根山

史跡・名所巡りのお役立ちツールのご案内

マップ

緑区観光推進協議会が作成しているポケットサイズのマップです。区内各所で配布のほか、上記の「緑区あちこちマップ」をクリックしていただくと、ページ内からダウンロードすることもできます。

緑区ルネッサンスフォーラムが作成している各地区の詳細な解説付きマップです。緑区役所、徳重支所などで配布しています。

観光ボランティアガイド

区内で活動する観光ボランティアガイドのご紹介です。解説付きで史跡・名所を回ることができます(要事前予約)。詳細は、下記の「観光ボランティアガイドのご案内」をクリックしてご覧ください。

観光ボランティアガイドのご案内

緑区観光ルートバス「みどりっち号」

緑区の主要観光エリアの主要駅・バス停を通るバスのご紹介です。

(土曜・日曜・休日の昼間の時間帯に8往復運行)

詳細は、下記の『緑区観光ルートバス「みどりっち号」』をクリックしてご覧ください。

緑区観光ルートバス「みどりっち号」

まちかど案内所

観光客の皆様へ観光マップの配布や名所史跡の簡単なご案内など、散策に役立つ情報を提供している店舗や事業所などです。
緑区へお越しの際はお気軽にお立ち寄りください。

店舗一覧は下記の「まちかど案内所」をクリックしてご覧ください。

まちかど案内所

このページの作成担当

緑区役所区政部地域力推進室地域の魅力の向上・発信担当

電話番号

:052-625-3878

ファックス番号

:052-623-8191

電子メールアドレス

a6253872@midori.city.nagoya.lg.jp

お問合せフォーム

お問合せフォームへ移動

このページについてご意見をお聞かせください

ご注意

  1. お答えが必要なお問合せは、直接担当部署へお願いいたします(こちらではお受けできません)。問合せ先等が不明な場合は、ページ下部の「このページの作成担当」などをご確認下さい。
  2. 個人情報を含む内容は記入しないでください。

みどり市場 ―緑区から「旬」情報をお届けします―に戻る

桶狭間の戦いに関する史跡をご紹介します!の別ルート

ページの先頭へ