トップページ>暮らしの情報>施設案内>図書館・美術館・博物館>美術館・博物館>秀吉清正記念館>(現在の位置)常設展示室
常設展示室
ページの概要:常設展 第65期を開催中です。織田信長の登場から、豊臣家の滅亡までを紹介しています。
常設展示室

豊臣秀吉は1537年(天文6)に、この尾張中村(現名古屋市中村区)に生まれました。当時は、室町幕府が弱体化し、各地の戦国大名が実力で領土を支配する、戦乱の時代でした。秀吉は、彼が仕えた織田信長の統一事業を継承して、国内を統一し、新しい近世社会の形成に大きな役割を果たしました。この秀吉の下で、加藤清正ら多くの尾張出身の武将たちが活躍しました。
常設展では、尾張中村で生まれた2人の武将、豊臣秀吉と加藤清正の事績を紹介しています。秀吉が織田信長に仕えたころから、天下統一への道のり、秀吉死後の関ヶ原の戦い、大坂の陣での豊臣氏滅亡までを、実物資料、複製、模型などを用いて、展示しています。
ただいまの見どころ 第65期 7月13日(火)から8月22日(日)
今期に限り、展示されている資料です。
通常はなかなか見ることができませんので、この機会にぜひ実物をご覧ください。
※複製、模写については、原資料のデータ。特記なき限り、秀吉清正記念館蔵。

織田信長朱印状 室町時代後期
永禄10年(1567)11月日付 兼松又四郎(正吉)宛
*家臣、兼松正吉に、美濃河野に領地を与えることを伝える。織田信長が「天下布武」朱印を使った最古の書状。

足半(あしなか) 安土時代
*1573年(天正元)、刀根山の戦いでのほうびとして、信長が兼松正吉に与えたわらじ。

朝鮮国内裏并陣場之図(ちょうせんこくだいりならびにじんばのず) 桃山時代
*第1次朝鮮出兵で、日本軍の漢城(ソウル)の内裏占拠と碧蹄館の戦いを描く地図。

加藤清正并十六将之図(かとうきよまさならびにじゅうろくしょうのず) 江戸時代後期
*加藤清正と、彼に仕えた16人の武将を描く。
このほか、今期に限り展示される資料は、下記の通りです。
*棗(なつめ、茶入) 安土時代
織田信長が秀吉に与えたと伝わる茶入。
*賤ヶ峯合戦之図(しずがみねかっせんのず) 江戸時代後期 歌川国芳画
1583年(天正11)の賤ヶ岳の戦いで、奮戦する加藤清正の姿を想像で描いた浮世絵。
*四戦図之屏風 右隻(模写) 原資料;江戸時代前期 1700年(元禄13) 前田育徳会蔵
長久手の戦い(1584年)、関ヶ原の戦い(1600年)の配陣を描いた地図屏風。
*加藤清正坐像 江戸時代後期
清正を武運長久、商売繁盛などの神として信仰するための像。
*江戸名所図会の内 大川端清正公 江戸時代後期 1862年(文久2) 2代歌川広重画
参詣客でにぎわう、江戸浅草の幸龍寺・清正公堂を描いた浮世絵。
*絵入太閤記 江戸時代中期 1710年(宝永7)刊小瀬甫庵著、近藤清香画
さし絵入りで人気を集めた、太閤記本の一つ。
*見立三拾六花撰句合(みたてさんっじゅうろっかせんくあわせ) 明治 豊原国周画
歌舞伎狂言(秀吉、清正らが登場する)を演じる役者を描いた浮世絵。
詳しくは、下記リンクから展示目録をダウンロードしてください。
テーマ1.信長と秀吉
尾張の戦国大名、織田信長はしだいに勢力をのばし、1568年(永禄11)室町将軍・足利義昭を助けて、京(今の京都市)に入りました。秀吉は信長に仕え、長浜城主(現・滋賀県)、次に姫路城主(現・兵庫県)に取り立てられ、力をつけていきます。信長は1573年(元亀4)に室町幕府を滅ぼしますが、1582年(天正10)、本能寺で明智光秀に討たれ、天下統一を目の前にして倒れました。ここでは信長が天下統一を志した時代を紹介します。

織田信長画像
桃山時代 天正11年(1583)5月賛
(複製 原資料;神戸市立博物館蔵 重要文化財)

火縄銃
江戸時代 国友重光作
テーマ2.秀吉の天下統一
信長の死後、秀吉は他の家臣たちをおさえ、後継者となりました。ここでは「天下統一」、「検地と刀狩り」、「対外政策」の3つの小テーマに分け、秀吉の天下統一への道のりと、政治手法を紹介します。
2-1.天下統一
秀吉は1582年(天正10)、山崎の戦いで明智光秀を、翌年、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を倒し、信長の後継者として、天下統一を進めていきました。秀吉が政治の中心を置いたのは、大坂城(現・大阪市)でした。1585年(天正13)に関白(天皇を助けて政治を行う職)となり、豊臣姓を名乗ります。1590年(天正18)に小田原(現神奈川県)の北条氏を降伏させ、ついに天下を制覇しました。
。

豊臣秀吉画像
桃山時代
(複製 原資料;神戸市立博物館蔵)

馬藺後立兜(ばりんうしろだてかぶと)
桃山時代
(複製 原資料;大阪城天守閣蔵)
*九州攻めの際、豊臣秀吉が西村重就に、ほうびとして与えたもの。

裁断橋擬宝珠(さいだんばしぎぼし)
江戸時代前期 1622年(元和8年) 名古屋市博物館蔵 名古屋市指定文化財
*小田原攻めの最中に病死した、堀尾金助の三十三回忌で、母が心情を刻んだもの。
2-2.検地と刀狩
秀吉の打ち出した政策で、特筆されるのは、ほぼ全国で検地と刀狩を行ったことです。検地は、全国の土地を測量し、石高(こくだか その土地で、米がどれだけとれるかの見こみ)を決めたものです。これをもとに年貢(ねんぐ)高を決め、安定した経済基盤づくりを目指しました。刀狩は、農民に武器の所有を禁止し、没収するものでした。それまで不明確だった、農民と武士の区別をはっきりさせました。

検地基準尺
桃山時代 石田三成署名花押
(複製 原資料;鹿児島市・尚古集成館蔵 重要文化財)

豊臣秀吉刀狩条目
桃山時代 天正16年(1588)7月8日付
(複製 原資料;大阪城天守閣蔵)
2-3.対外政策
秀吉の時代には、日本近海にポルトガルなどヨーロッパの船がやってくるようになりました。秀吉は貿易を奨励し、当初はキリスト教も受け入れていましたが、1587年(天正15)に突如、キリスト教の布教を禁止し、弾圧を始めます。明(みん 中国)を征服しようと、2度にわたり朝鮮に出兵しました。この戦いで朝鮮だけでなく、国内も重い負担に苦しむことになりました。この戦いは、秀吉の死によってようやく終わりました。

明王贈豊太閤冊封文(みんおうぞうほうたいこうさくほうぶん)
明代 1595年(万暦23)正月21日付
複製 原資料;大阪市歴史博物館蔵 重要文化財
*第1次朝鮮出兵の講和交渉で、明王が秀吉に送った文書。秀吉の要求はすべて受け入れられなかった。
テーマ3.関ヶ原の戦い
1598年(慶長3)、秀吉は幼い子ども、秀頼(1593-1615)を残して病死しました。リーダー不在の混乱の中から、実権を握ったのが徳川家康でした。1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いで、敵対する石田三成らを破り、1603年(慶長8)に江戸幕府を開きました。豊臣秀頼は1615年(元和1)、大坂の陣で家康に攻められ、豊臣氏は滅亡します。
ここでは、天下分け目の合戦となった、関ヶ原の戦い前後の時代を紹介します。

徳川家康画像
江戸時代 狩野探幽筆
(複製 原資料;徳川美術館蔵)
テーマ4.清正と尾張の武将
加藤清正(1562-1611)は、秀吉と同じ尾張中村の生まれで、その親族に当たるといわれます。幼い時から秀吉に仕え、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで功績をあげ、「七本槍」に名を連ねました。その後は出世コースをひた走り、熊本42万石の城主にまでなりました。合戦や城づくりだけでなく、城下町の整備や農業の発展にも力を入れています。
尾張からはこのほか、前田利家、柴田勝家、福島正則、丹羽長秀、蜂須賀(はちすか)正勝など、多くの武将が出ています。加藤清正をはじめ、各武将の動向を紹介します。

蛇の目紋長烏帽子兜
桃山江戸時代 加藤清正所用
(複製 原資料;熊本市・本妙寺蔵)
テーマ5.太閤記の世界
足軽からスタートして、天下人まで上りつめた秀吉の一生に、人々にあこがれと興味を抱きました。1626年(寛永3)に秀吉の伝記本、小瀬甫庵(おぜほあん)著『太閤記(たいこうき)』が出版され、広く読まれました。この本では史実にかなりの脚色がなされ、秀吉は物語の中のヒーローとして描かれます。その後も、秀吉をヒーロー化した読み物や芝居が多くつくられていきました。私たちがイメージする秀吉像は、史実によるものよりも、後世の読み物、芝居での創作によるものの方が、ずっと強いのが現実です。
ここでは、伝記本や浮世絵などで伝説、ヒーロー化された秀吉像を紹介します。
ビデオコーナー
常設展示室のビデオコーナーでは、4本の番組から選んでご覧いただけます。
1.絵解き関ヶ原合戦(13分)
2.戦国の城(13分)
3.信長のルーツをさぐる(6分)
4.戦国那古野城(6分)
お問い合わせ先
●問合せ先:名古屋市秀吉清正記念館
●電話番号:052-411-0035
●ファックス番号:052-411-9987
●応対時間:午前9時から午後5時30分 休館日は除く
●電子メールアドレス:a4110035@kyoiku.city.nagoya.lg.jp
●郵便番号:453-0053 愛知県名古屋市中村区中村町茶ノ木25
●休館日:月曜日(祝日の場合は直後の平日)、第3金曜日
コンテンツ掲載日 平成22年4月22日|修正日 平成22年7月15日
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください
